1971年(昭和46年)7月、通商
産業大臣に就任した田中角栄氏は、2〜
3年来の懸案の日米繊維輸出問題を3ヵ
月のうちに解決された。その直後から、
代議士一年生から通産大臣までの24年
間取り組んできた国土開発の問題を一冊
の本にする構想を秘書官である私に披露
され、早速編成されたゴーストライター
チームに対して、四日間連続、一日8時
間の講義が始まった。その内容は、
1972年(昭和47年)6月に日刊工
業新聞社発行の日本列島改造論に譲るこ
ととし、今でも記憶に残っている田中語
録をあげてみたい。
@日本列島の日本海側と太平洋側
は、江戸時代から明治二〇年代まで
「内日本と外日本」と称していた。
ところが、外日本が工業地帯として
発展するにつれて、内日本は、出稼
ぎ労働者の供給源となり、「裏日本
と表日本」と格差を表すような呼称
となっていった。国土の均衡ある発
展が求められる所以である。
A高度成長によって東京など太平洋
ベルト地帯へヒト、モノ、カネ、情
報が過度集中し、地方は、若者が
減って成長のエネルギーを失おうと
している。国民が求めているのは、
過密と過疎の同時解消であり、その
ためには、工業の全国的な再配置と
知識集約化、高速自動車道、全国新
幹線の建設、情報通信網の整備等を
急がねばならない。
B道路等のインフラ整備の財源と
して、ガソリン税を税源とする道
路特別会計を作った。当初議員立
法を考えていたが、財源に関する
立法なので、政府提出法案となっ
た。加えて「無料公開」原則の道
路に「有料道路」の考え方を導入
した結果、高速自動車道の建設が
進み、これが戦後の高度成長を支
える原動力となった。
C『日本列島改造論の目指すもの
は、「平和大国」であり「軍事大
国」ではないとの外国人ジャーナリ
ストの評価を聞いて』、無資源国日
本は内外ともに平和な環境でないと
生き残れない。農村地域の工業化、
学園都市、インダストリアル・パー
ク等を盛りこんだ日本列島改造論の
考え方は、若者を通じて次の世代に
も語り継いでもらいたい。
D「新潟生まれの私にとっては、雪
は生活との闘い」、「岡山生まれの
小長君にとっては、雪はロマンの世
界」、この違いが、パッション、ビ
ジョン、ミッションの差となってい
るかもしれない。