山の神・海の神・木の神・水の神…八百万の神。多くの自然を神と崇め、それらから受ける恩恵と、畏いふ敬の念により、私たち日本人は自然と共生してきたといわれています。
私の住む小田原は、前に相模湾が広がり、後ろには箱根山が控えており、海・山からの恩恵は計り知れません。平安の昔、西からの木地師がこの地を生業を営む地と定め、『木地挽』を始めたのも、木材資源の質量の豊富さに由来していることは想像に難くありません。
ここ小田原市早川には木地挽の祖、惟喬(これたか)親王を祀る「紀伊神社」別名 W木の宮さんW が鎮座し、毎年六月には『惟喬祭』を小田原・箱根地方の木工業界全体で開催しています。
千年前に小田原の早川に始まった、轆轤(ろくろ)で木地を椀や盆に作り上げる木地挽は、室町時代には木地椀に漆を施した『小田原漆器』として現在に至っています。また、台鉋・鋸等の道具の登場と普及により、江戸時代以降『指物細工』も盛んに作られます。この頃になると小田原ばかりではなく、より材の豊富な箱根でも多くの木工製品が作られるようになりました。また特に箱根山系は樹種が多いことでも有名です。多くの職人が材を山から伐採するたびに、白の水木・真弓、緑の朴、黄の苦木・漆、赤の赤楠、チャンチン、そして芦ノ湖の湖底に眠る黒の神代木等々、様々な材の美しい色彩と木目に出会っていました。
寄木細工を生業としている私自身もそうですが、これらの様々な木々の色彩と木目に触れるたびに創造意欲を刺激され、心躍るほど楽しくなるのは昔の先輩職人の諸兄も同じだったと思います。こうして平安時代から続く多彩な木工技術と、箱根の美しい自然が融合したものが『箱根寄木細工』に結実します。江戸時代も終わりの頃です。
その後も箱根七湯の湯治客の土産物として売られた、「七福神の入れ子玩具」は遠くロシアのマトリョーシカの原型になりました。また、明治に入って糸鋸ミシンが開発されると、様々な木材を自在に切り抜き、嵌め込み一つの絵画に仕上げる『木もくぞうがん象嵌』、そして『秘密箱』に代表されるからくり箱等も多く作られるようになっていきました。
現在、国指定の伝統的工芸品は北海道から沖縄まで、222品目存在しています。それらのほとんどがその土地、土地の自然素材をもとに生活の道具としての工芸品を、その地域の人たちが自らの知恵と工夫により創り上げてきました。このように多彩で豊かなものづくりをする国は、もしかすると日本だけなのかもしれません。日本の四季が織りなす美しく豊かな自然と、日本人の自然に対する真摯な姿勢が、日本の文化としての伝統工芸品の世界を創り上げてきました。この自然と人間との関係…今、我々が再確認すべき最も重要な課題かもしれません。