先日、慶応大学のあるゼミで講演する機会があった。驚いたのが学生の出身地。60人ほど参加していたが、講演の冒頭、出身地を尋ねたら、東北がひとり、四国がひとり、他の地方も似たようなもので、最後に首都圏を聞いたら、わらわらと手があがった。ゼミの先生曰く、「今は慶応も早稲田も七割くらいは首都圏出身者。もはやローカル大学だよ」。他の大学も似たような状況だと聞く。私が大学生だった20年前は、東京にある大学はだいたい首都圏出身者と地方出身者の割合は半々だったような記憶がある。
何が言いたいのかと言うと、盆暮れに帰省するふるさとがない学生が急増しているということだ。あと30年もすると、帰省ラッシュはなくなるだろう。首都圏生まれの首都圏育ちがわさっと首都圏に暮らしている超一極集中の日本の出現である。
元々、戦後に長男が全国各地の農山漁村に残って農家や漁師をやり、機械化・分業化で手余しになった次男以下が出稼ぎでつくったのが、今の東京、大阪、名古屋などの大都市である。つまり、両者は血縁でつながっていた。その血もうすれ、間もなく都市と地方の分断は決定的になる。
ゼミの生徒たちはフィールドワークを重視していて、土日になると限界集落に通っていた。面白くて仕方がないと言う。地域コミュニティと親戚づきあいを羨んでいた。関係性が希薄な社会で生まれ育った彼らにとって、関係性はもはや贅沢品となっているようだった。
印象的だったのが、「たまに通うのはいいけど、住めと言われたら無理」という言葉。こういう人は、学生に限らず、大人でもとても多いような気がする。昨年、大ヒットした里山資本主義を一番読んだ層は、首都圏の40代男性だという。みんな里山での暮らしに憧れる。でも、実際は東京の暮らしをリセットして、里山には行けない。そんな声を多く聞く。
都市か地方か。長らく日本ではこの二項対立が続いてきた。日本は、都市と地方で得られる価値や機会があまりにも違うので、どちらか選べという方が酷だと思う。ならば、両方に拠点を持っていればいいんじゃないだろうか。私は、そのことを「都市と地方をかき混ぜる」と表現している。
その際、“食”をかき混ぜ棒にするのが最も効果的だと思う。なぜなら、誰もが毎日三回やることで、食べる人が都市にいて、つくる人が地方にいるのだから。元々、両者は血でつながっていたのだ。血縁が切れても、同じ命を巡る関係性を構築できるのではないだろうか。
都市に生活と仕事の拠点を置きながらも、一年のある一定期間、例えば夏休みの一週間、日頃の自分たち家族の食べものをつくってくれている生産者がいる地方に行き、農作業を手伝い、交流する。それを毎年繰り返していけば、親戚のような関係性ができていくはずだ。事実、東北の被災地と都市の間で、そのような関係性が紡がれ始めている。これは新しいふるさとづくりの萌芽になると思う。