武者小路実篤の『人生論』に次のような一節がある。
「人生にとって健康は目的ではない。しかし、最初の条件なのである」
けだし名言。どんなに優秀な人間でも、まず基本である肉体が健康でなければ、どんな偉業も成し遂げられないし組織をまとめることもできない。元内閣総理大臣の安倍普三氏も、自らの健康問題が原因で、志半ばのまま職を辞さざるを得なかった。健康は、仕事を全うするための最初の条件なのである。
私は元マラソン選手。現在もジョギングを欠かさない日常を送っている。体力と健康にはすこぶる自信がある私に、末期一歩手前の大腸ガンが突如襲い掛かった。六年前のことだ。今やガンという病気は、誰にでも起こり得る死へのリスクとなった。しかし、困ったことに、“まさか自分が≠ニ考えている人が実に多い。年齢が若ければなおさらだろう。私の場合も同様。三〇代後半から数年にわたり「下血」と「便鮮血」という自覚症状のサインがあったにもかかわらず、体力への過信と、忙しいという理由で内視鏡検査を避けていたのだ。早期発見であれば簡単な内視鏡手術で治ったはず。しかし、発見が遅れたため、肉体に大きなダメージを与える開腹手術しかなかった。自業自得あるいは天罰だと思っている。
幸い手術は成功し、その後も転移や再発なく生き延びている。
「キャンサーギフト」という言葉があるくらい、ガンという病気から教わることは少なくない。初めて死を意識する機会を与えてくれたのもガンだ。
人は生まれてやがて死ぬ。これは逃れられない共通の運命である。死ぬことは決まっているのに、自分はいったいなんのために生まれてきたのかと考えることもある。宗教や哲学にはさまざまな回答があるだろう。人生の数十年間、どれだけ世の中や人の役に立てるか。あるいは、幸せな家族の絆を築くことができるかが人生の目的だとシンプルに考える人もいる。
死に向かう道程で生きる意味を追求するのはそれぞれの価値観でいいと思う。ただし、生きている時間、健康な肉体でいられなければ、人生の達成感を得るのは難しい。
病気を機に一冊の本を上梓した。執筆しながら、「病気かもしれないが、健康でもある」ということばが浮かんだ。これは、年齢を重ねれば誰にでも病気のリスクはあるが、健康のためになにかひとつでも取り組むライフスタイルをすすめたいという意味が込められている。私の場合は、ランニングであり、フルマラソンを走り続けること。自らの意志で実行したことに、正直にそしてシンプルに身体は答えてくれるのだ。