米国の行き過ぎた市場原理主義を取り入れたことにより、昨今の日本は随分とすさんでしまったように感じる。短期志向で近視眼的な物の見方が世の中に溢れているように思えるし、そういった経営者が多いことが特に気になる。古来、日本人は、外来のものを上手に取り入れて使うことがとても得意だったはずだ。ところが、今回はなぜ、このような事態に陥ってしまったのか。そんなことを考え続けているうちに、約三十年前、松下政経塾に二期生として在塾していた際に、松下幸之助氏より教示を受けた「人間大事」の話を思い出した。
松下幸之助氏の哲学を一言で言うならば、それは「人間大事」である。人間は、「万物の王者」であり、「偉大な存在」である。しかし、人間は、「偉大な存在」であるがゆえに、「巨大な責任」を背負い、その自覚や自制も必要となる。そして、「偉大な存在」である人間は、「無限の能力」を持っている―。松下幸之助氏独自の人間観であり、物事を捉え、考える際には、常にこの考え方が出発点に据えられている。
例えば、「リストラ」や「成果主義」など、欧米の合理主義から生まれた概念が、現在の日本にも定着している。リストラであれば、確かに、状況を「理」をもって冷静に判断し、切るべきところを切るということは、時として必要となる。しかし、人間を単に「数字」や「物」と捉えてしまえば、まるでゴミでも捨てるかのような非人間的なやり方になってしまう。やはり、そこには、人間を大事に思う気持ちが必要で、「理」の後には、必ず「情」が添えられなければならない。また、単に成果主義だけを取り入れてしまっては、社長も自分の任期で如何に成果を上げるかということしか考えなくなるし、社員も長期展望なしに、自分の給料を短期間で上げることしか考えなくなる。そもそも、人間には、「夢」や「理想」という「最終目標」があり、マラソンならば、「四二・一九五キロのゴール」がそれに当たる。しかし、単なる成果主義は、「最初の五キロを何分で走るか」というようなことに過ぎない。「五キロを何分で走る」「その次の十キロを何分で走る」ということだけではなく、最も大切な「四二・一九五キロのゴール」という最終目標を示したうえで、到達方法も含めた成果主義というものが存在しなければならない。
欧米から入ってきたものを、一度「煮沸」したり、「翻訳」したりする大切な作業を省みないところに、現在の日本の問題がある。そして、この作業の際には、「人間大事」の考え方が不可欠である。しかし、これは、何も経営の世界だけに限った話ではなく、政治にも、経済にも、社会にも、国家にも当てはまる。この世の中の全てを動かしているのは、結局は人間なのだから。