親鸞教徒の私は、何事も「御恩報謝」の気持
ちで過ごすべきものと思い定めながら、日々見
聞きするものについて不平、不満、不足の気持
ち、あるいは心配の念を抱くのは、信心獲得に
至らぬ私の「煩悩」のなせるわざなのか。銀座
で貰った小冊子の随筆に「年を取るにつれて不
平、不満が一杯になり、その結果この世に生き
るのが嫌になり、未練を残さずにあの世に行け
るのだ。」とあって自分もいよいよその境地に
到達したのかと思うようになった。極論かも知
れぬが上
から下
まで日本列島を覆う「低俗迎合」
「軽佻浮薄」「金銭至上」「権謀術数」には、ほ
とほと嫌気をさしているというのが偽らざる心
境である。
もとより罪悪深重煩悩熾盛の身であるから外
部からの規制によりその身の在り方を正してい
くことは必要欠くべからざることだが、とにか
く最近は、自己責任といいながら、外面からの
締め付けが多く、「人間は考える葦」というよ
うなことが死語化しつつあるのではないかと思
う。書店に行けば「万引きは犯罪です」と掲示
され、電車に乗れば「発車間際の飛び乗りは危
険です」「痴漢は警察、駅員に通報を」と呼び
掛ける。煙草の吸い殻のポイ捨ても過料だ。こ
のように何かに付けて外から人間の行動を縛ろ
うとする。よし悪しの内面的判断に任せたらど
うかと思うことも多い。これでは、人間の深い
思慮とか判断力をスポイルしてしまうことにな
り、我々は、外部からの規則、規律によって操
り人形の如く行動するという習癖に陥らないか
と危惧するのである。一方においては、規則等
に触れなければなにをしてもよいということに
ならないかという心配もある。もっと人間の内
面を信用したらどうか。
物事には、形式と実質がある。実質を見ない
で形式だけで価値評価をするという傾向も顕著
ではないか。「改革」論議もそうだ。
「改革」といえば侵すべからざるもの、黄門
の印籠のように働く。少し前は、政治家のなす
ことは多少「うさん臭い」というような見方を
する風潮もあった。今は、「政治主導」だ。政
治家のされることは民意に基づく正当なもの
で、役人の言うことは、「省益擁護、自己保身」
の底意に基づくものでいかがわしいというよう
な決め付けの議論が目につく。「官から民へ」
とのキャッチ・フレーズもそうだ。その可否は、
事柄の実質を慎重に判断して決めることだろ
う。偽装設計のようなことが起こると、途端に
見直し議論をするというのもお粗末だ。プロ野
球球界の話もそうである。選手は、「純真」、こ
れに対して球団、その親会社、経営者が商業主
義に毒された「腹黒い」という見方だ。プロ野
球七〇年の歴史の中で球団、その親会社がどれ
だけの犠牲を払ってきたか、そのお陰でプロ野
球の今日があるのである。かって籍を置いた「法務・検察」についても同様で、「法務」と
「検察」を対立的に捉え、「法務」を、さながら
政治家の走狗のようにいい、「検察」を、正義
の味方的にいうマスコミ議論も優勢であった。
実態を見ぬ教条的にして馬鹿気た見解という他
はない。
「衣食足りて礼節を知る」というから、この
世で大切なものは、「お金儲け」であろう。反
面、我々の心の問題すなわち精神の問題が軽視
され、その指導者を欠いているのは寂しい。こ
の精神的荒廃から脱し、人間社会の両輪をなす
物質と精神のバランスを得た社会を創造するた
めに、「精神的指導者よ出でよ」と叫びたい気
持ちで一杯である。