1月17日、阪神・淡路大震災から20年を迎えた。高校一年生だった私は、テレビから変わり果てた神戸の街に衝撃を受け、その晩に地震学者になることを決意した。瓦礫に向かってパジャマのままで「おかあさーん!」と叫び続ける同じ年頃の少女に、東京の自宅で母が作ってくれた温かい晩ごはんを食べていた高校生の私は、責任を感じたのだと思う。こんな悲劇が二度と起きないように私は何かする必要がある、そんな想いに駆られて、あの晩に自分の進路を決めた。
2011年3月11日、東日本大震災が起きた時、私は既に地震学者として国内外で研究や啓発の活動を行ってきていた。もうただの高校生じゃない。地震学者として、この甚大な被害にいったいどれほどの責任を負うべきなのだろう―。
遡って2010年4月、当時私が勤務していた東京大学地震研究所に、気仙沼市の中学校から5名の少年少女がやってきた。修学旅行で東京を訪れたので、地震と津波の話を聞かせて欲しいという。ひと通りの説明をして、地震が起きたら高いところね、などと伝えてレクチャーを終えた。
そのたった10ヶ月後、テレビに映し出された三陸の惨状に私は言葉を失った。彼らの町は巨大津波に飲まれ、跡形も無い更地となっていた。見学に来た中学生の名前をインターネットで検索しながら、自問を繰り返した。私は、いつか君たちが津波にあった時に絶対に生き延びられるように、と思って講義をしただろうか。結局私だって、巨大津波が来襲することを現実的に考えていなかったのではないか。救えたはずの命を、そのチャンスを、あまりに軽率に扱っていたのではないか。自分の不甲斐なさに愕然とした。
「私と会った人は絶対に地震で死なせない」。あの日に立てた誓いを胸に、命を守るための新しい地震学を模索している。地球と対話して、現象を科学的に解明することがゴールとなっている今の地震学ではなく、そこから得られた知見や、あるいはそこからは得ることのできない現段階での科学や技術の限界を隠すことなく伝え、対話し、あなたとあなたが大切に思う人たちの命を守るための地震学を創造したい。
震災後、企業や地域に呼ばれて講演する機会が多くなった。「どういう想定外を想定すればいいでしょうか」。想定外を想定するのは無茶というものだ。そうではなくて、「いかなる想定外が起きても失ってはならないものは何か」を考えてほしい。家族の命、社員の命、会社の機能維持、住宅、財産、そしてあなた自身の命。それらを守りぬくために何が必要かを考えれば、何から始めればいいか見えてくるはずである。
2015年も我が国で大きな地震は起こるだろう。地震が起こるという自然の営みは止められないが、被害はいくらでも軽減できる。あの時やっておけばよかったと思うことのない、新たな年にしたい。